2012年3月16日金曜日

ゾルバ.ザ.ブッダ By OSHO


「ゾルバ.ザ.ブッダ」とは、なんでしょう?

前回もやたらとこの言葉の響きに魅き寄せられた人もいらっしゃいました。

これは、インドの神秘家OSHOが私たちにもたらしてくれた、新しい人間の

在り方なのです。

アユルヴェーダ.ヨガマッサージのコースでは、新しい人間存在として、

この困難に満ちた時代に在ってもなお、トータルに生きること充分に楽しむ

ことを提唱します。




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OSHO 

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ゾルバ・ザ・ブッダ





これまでの人類は、魂は実在するが物質は実在しないと信じるか、逆に物質は存在するが、魂は実在しないと信じるか、そのどちらかで生きてきた。
過去の人類は、必ず唯心論か唯物論かのどちらかに分かれていた。


しかし、人はその両方だ。彼は精神性だけではなく、ただ物質だけでもない。
彼は物質と意識の途方もない調和だ。あるいは物質と意識は別々なものではなく、一つの現実の二つの側面に過ぎないのかもしれない。物質は意識の外面であり、意識は物質の内面だ。しかし過去において、哲学者や賢者や宗教的神秘家のうち誰一人として、この統合を宣言したものはいなかった。彼らは、一方は真実だが他方は幻影に過ぎないと言って、人間を分割する道を選んできた。

そのことが惨めさや苦悩を生みだし、決して終わることのないような闇夜をつくりだしてきた。肉体に耳を傾ければ、自分自身を非難するはめになるし、ただ意識だけに耳を傾けるなら、自分の成長は釣り合いが取れない。意識は成長するが、肉体は委縮して、バランスが失われてしまう。そのためにバランスにこそ健全さがあり、バランスにこそ全体性があり、バランスにこそ喜びや歌やダンスがある。 


西洋は肉体に耳を傾けることを選び、意識という現実に関する限りまったくツンボになってしまった。その最終的な結果は、高度な科学、発達した技術、豊かな社会、日常的、世俗的なものの豊かさのただなかにあって、魂を欠いた。反対に東洋は意識を選び、物質と物質的なものすべてを、ただ見かけだけで現実には存在しないマーヤ(幻影)、砂漠の蜃気楼として非難してきた。だが東洋はそのために、空腹で飢えた。犬のように死んでいく何百万という貧しい人々を生みだしてきた。


その責任は私たちのすべての聖人---このはかり知れない犯罪の責任は、すべての哲学者(唯心論者と唯物論者の両方)の双方にある。


そして両方の真実の統合としての人材は「ゾルバ・ザ・ブッダ」である。ブッダはむろんおわかりだろうが、人間意識の最高の高みに立った人物ではあるが、彼は残念ながら地上の人ではなく、空を駆ける人だ。鳥は両翼があってよく天空を飛ぶが、仏陀はその点においては片翼の人でしかなかった。


それに対しギリシャの作家カザンザキスの小説「その男ゾルバ」の主人公ゾルバは、肉体の快楽、地上の快楽を信じた男である。彼は来生において自分に何がおこるか、天国に入るか、地獄に投げ入れられるかなどまったく気づかうことなく、生をその極限まで楽しんだ男だ。彼は山に入って石塊の落ちて行くさまにすら、生々とした生命感を感じ、満月の夜には、楽器を持って潮騒の聞こえる浜辺で歌い、踊ることのできる人物だ。


しかしゾルバは踊ることができ、歌うこと、祝うことができても盲目だ。ブッダは見ることができるが、ただそれしかできない。彼は純粋なる目と明晰さと知覚を持つが踊れない。彼は片端であり、歌うことができないし、祝うこともできない。ゾルバは半分であり、ブッダも半分だ。これが結びつくとすれば、それは物質と魂の統合だ。


それは物質と意識の間には葛藤がないということで、私たちはその両面において豊かになることができるという宣言だ。それを肉体と魂は一つだと言う、「存在」はスピリチュアリティ(精神性)に満ちていると言う。山々ですら生きており、樹々にすら感受性があるという宣言だ。この全存在はその両方だ。あるいはおそらく、物質と意識という二つの現れ方をするただ一つのエネルギーだ。


そのため「ゾルバ・ザ・ブッダ」というのは、この世のもっとも豊かな可能性だ。この両者のドッキング体は自らの本性をその極限まで生きる。彼はこの大地の歌を唄う。彼は大いなる大地を裏切らないし、また聖なる天空を裏切ることもない。


過去の人間が貧しかったのは、彼が「存在」を分割していたからだ。新しい人間、ゾルバ・ザ・ブッダは、この全世界が自分の家であると主張する。そこに含まれるものすべてが私たちのものであり、私たちはそれをあらゆる可能なやり方で使わねばならない。どんな罪の意識を持つことなく、葛藤もなく、選択もせずに、われわれはあらゆる物質を楽しむことは可能だし、あらゆる意識を祝うことも可能なのだ。


                                                                                ー  OSHO ー


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